2020.3.15みことばの時間「罪人の友となられたイエス」
今週の箇所は、マタイの福音書9章9~13節からメッセージします。
ルカの福音書5章27~32節 そしてマルコの福音書2章14~13節でも 同じ出来事を扱っていますので参照しながらメッセージをしたいと思います。
なお 聖書朗読はルカの福音書5章27~32節の箇所を使用させていただきます。
[ 聖書箇所 ]
その後イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。
そして「私について来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がりイエスに従った。
それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。
取税人たちやほかの人たちが大勢、共に食卓に着いていた。
するとパリサイ人たちやかれらのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。
「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」
そこでイエスは彼らに答えられた。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
このお話の主人公について
マタイの福音書で「マタイという人が収税所に………」となっているところが ルカの福音書では「収税所に座っているレビという取税人に……」となっています。
このことは後でまたふれますが、生まれたときに父親アルパヨからつけてもらった名前が〔レビ〕で イエスキリストに出会ったあとに〔マタイ〕と名前を変えたのです。
そして彼は《取税人》という仕事をしていたことがわかります。
取税人とはどんな職業で 当時の人々からどんなふうに見られていたのかは 今週の箇所を理解する上で大切ですので少し長くなりますが、ふれておきたいと思います。
《取税人》という職業
キリスト時代(AD30年頃)のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。
ローマは様々な税金を徴収するに際して被支配民から直接 恨みや反感を買わないで済むよう巧妙な徴税制度を持っていました。
税金を取り立てる権利を現地のユダヤ人に対して競売にかけ最高入札者に譲渡したのです。
収税の権限をローマ帝国に代わって請け負い 同胞から税金を取り立ててローマに納めるのが取税人の仕事でした。
ローマは取税人が 決められた税金を納めさえしていればあとは彼が何をしようが口出しはしませんでした。
それをいいことに多くの取税人たちは、規定の税額以上に多く徴収する、滞納者に高金利で金銭を貸し付けて厳しく取り立てをする など様々なあくどい方法で私腹を肥やしていたのです。
ですから取税人は 同胞のユダヤ人からは ローマの手先 裏切り者 売国奴とみなされ ほとんど 盗賊や人殺しと同列であるかのように扱われ軽蔑されていたのです。
レビはこの取税人をしていたのです。
《取税人》レビの苦悩
ところで〔レビ〕というのは人名をあらわす固有名詞ですが 一方で彼がユダヤ人の12種族のうちの一つ、〔レビ族〕の出身であることも示しています。
この種族は代々祭司職を受け継ぐ立派な家系です。
しかしレビは 何らかの事情があって取税人に身を持ち崩していたのでしょう。
表向きは レビ族の出身、金銭的にも何一つ不自由なく羽振りが良かったことでしょう。
しかし、彼の内面は
- 同胞の誰からも相手にしてもらえない疎外感、
- もう決してまともな社会の構成員に戻る事のできない喪失感
- レビ族出身であるのに取税人をしている事に対する後ろめたさ
などに打ちひしがれていたに違いありません。
イエス様との邂逅
1.運命の出会い
そんなある日 イエス様が道を歩いていた時に 収税所に座っているこのレビに、目を留められ『私についてきなさい。』と声を掛けられました。
するとレビはためらうことも無くすべてを捨てて立ち上がりイエスに従ったのです。
2.イエス様の方から
もうすでにガリラヤ地方に広く知れ渡っていたイエス様ですから いつも多くの群衆に取り囲まれていたことでしょう。
けれど、そんな中で通りすがりの たまたまそこにいたレビに、じっと目を留められいきなり『私についてきなさい。』と声をかけられたのは いかにも唐突な感じがします。
しかしおそらくイエス様は以前から レビがずっと苦悩を背負い続けていることを見通していてご自身の方からレビに会いに向かわれたのでしょう。
3.レビの応答
一方のレビはレビで 初対面(おそらくそうであったでしょう)のイエス様の誘いに、すべてを捨ててこの方に従う決心を即座に下したのはこれまた不思議な気がします。
が、イエス様の評判を聞いて 密かにそのお話や行動を見聞きしていたということは十分にあり得たでしょう。
そしてこの方のうちにならば今までにない新しい何かが得られるかもしれない、一度この方と直接会って話をしてみたいものだ と思っていたのかもしれません。
果たせるかな そのイエス様が今 自分の目の前に現れ だれ一人相手にしてくれない 嫌われ者のこの私に対して優しい眼差しを注いで下さり この方の方から親しく声を掛けてくれたのです。
そして『私についてきなさい。』と招いてくださったのです。
予想もしなかった驚き・あふれ出る喜び、これがレビの心を動かし彼はすべてを捨てて立ち上がりイエス様に従ったのです。
キリストに出会う ということ それは
1.人が造り替えられる ということ
イエス様とのこの出会いが、レビのその後の人生を一変させました。
彼はこれまでの〔レビ〕に代わって〔マタイ〕を名乗るようになります。
マタイとは“神の下さった賜物”という意味です。
「イエス様によって 私の生涯は変えられた ! 」
「これからの新しい人生は 神様からいただいたプレゼントだ 」
という高らかな歓喜の声が聞こえてくるような名前ですね。
人の内側から喜びが外に向かって溢れ出る ということ
マタイはこの溢れ出る喜びを とても自分自身のうちに留めておくことができませんでした。
早速自分の家にイエス様をお迎えして盛大なもてなしを始めました。
その席には、彼と境遇を同じくする取税人の仲間たちもたくさん招かれていたのです。
イエス様とレビを囲んで 喜びの分かち合い が始まりました。
他の人の必要のために生きるようになる ということ
このすぐあと マタイはキリストの12弟子のひとりとして加えられています。
が、それから先の彼の足跡については聖書にも記述がなくユダヤ人の間に不確かな伝承があるのみで 詳しいことはほとんど何もわかっていません。
しかしながらひとつ確実に言えることがあります。
それは 彼が人々をキリストに導くうえで計り知ることの出来ない偉大な貢献を成したということです。
キリスト以降のあらゆる時代・さまざまな国の多くの人々の人生を根底から変えてきた《聖書》、その全66巻のなかでおそらく最も親しまれ最も多くの人たちに読まれてきたであろう《マタイの福音書》、これを彼は執筆したのです。
レビと名乗っていた取税人の時代に 収税帳をつけていたその筆を使って、今度はイエス様にお供をして行く先々でのイエス様の言行録を《マタイの福音書》として書き上げました。
病んでいる人々 希望を失い失意の底にある人々 魂の安らぎに飢え渇いている人たちを 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。」とおっしゃる方のもとに導く最良の案内書を遺してくれたのです。
キリストと“あなた”
1.キリストはあるがままの“あなた”に目を留められる方
私たちは人生のさまざまな場面で
- 病み 傷つき 疲れ そして将来の希望を失います。
- 社会の役に立っていないし誰からも歓迎されていない。
- すっかり皆から忘れ去られてしまっている存在。
- こんな私の人生にいったいどんな価値があると云うのだろうか?
自分でさえ自分自身を否定的に捉えることしかできなくなってしまうことが少なからず有りはしませんか ?
しかし往々にしてこのような時に、キリストは私に会いに来てくださるのです。
キリストはそのようなあるがままの“あなた”に目を留めて下さるお方なのです。
2.キリストは“あなた”を招いておられる
キリストは 私が来たのはあなたの痛みを取り去り あなたに神と共に歩む新しい人生のステップに入っていただきたいからだ、さあ私についてきてください と招いておられます。
あなたはその方を信頼して収税所の椅子から立ち上がり この方の後に従い次の一歩を踏み出すよう願っておられます。
3.出会いの機会を大切に
キリストは今、この場所・この時間を通して ここにお集まりになられた方々一人一人に語りかけています。
もしあの時レビがためらっていたならば 依然として彼の人生は 内面に大きな闇を抱え続けたままだったに違いありません。
でもレビはイエス様との出会い“その瞬間”を無にはしませんでした。
そしてそのときからレビの人生は大きく変わったのです。
レビとイエス様の出会いは、偶然の出来事のように思えるかも知れませんが 決してそうではありませんでした。
同じようにこのメッセージをお聞き下さった皆様おひとりおひとりにとっても決して偶然ではないと思います。
続けてイエス様について 求めてくださいますよう心からおすすめいたします。
最後までお話を聞いてくださりありがとうございました。