ホザナ会③ 時は満ちた
時は満ちた
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。(マルコの福音書1:15~20)
時は満ちた
新しい年度が始まりましたね。みなさんはどんな思いで新しい年度を迎えたでしょうか。まあ、私たちの年齢になると特に新しいことは何もないという人も多いかも知れません。しかし、若い人たちは違うと思います。特に新しい学校、新しい職場を迎える人たちにとっては。
新しいことを始めるには、それなりの準備が必要です。新しい学校、新しい職場を手に入れるためには、まず入試や採用試験などに合格しないとだめですね。そうしてそういう資格を手に入れてもさらにいろいろと必要なものを手に入れる必要があります。人によってはすむところを新しく用意することも必要になり、そうするとたくさんの準備が必要だと思います。
聖書は告げています。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書1:15)
「時が満ちた」それは、十分な用意が出来たという意味でもあるのです。
2000年前、それは神の子イエス・キリストが来られるために最高にの用意が出来たときだったのです。紀元前30年オクタウィアヌスは、100年近く続いた内乱を終わらせ、唯一の最高権力者となりました。アウグストゥス(尊厳者)という称号を受け、以後200年にわたるローマの黄金時代、パクスロマーナとよばれる時代を迎えたのです。後の歴史かギボンは、「人類が最も幸福であった時代」とまで評価しています。政治の安定は交通も安定させます。すべての道はローマに通ずとあるように、ローマ時代は、隅々にまで道路網を行き渡らせ、その道路すべてをつなげると、なんと⒏万キロ、地球を2周する長さになるというのです。詩とパウロたちはこの道路を使って伝道旅行することが出来たのでした。
何事にも時があります。神様はそのときを用意してくださるのです。神様は、私にもそのときを与えてくれていました。クリスチャンの家庭でもないのに、聖書が用意されました。大学の時には、通学の時、沼田から渋皮までの時間、一緒に交わる人を用意してくれていました。そして親元を離れ、埼玉に一人で住むようになった年の5月イエス・キリストを受け入れ、その年の11月にバプテスマを受けることになりました。人それぞれに異なった時が用意されていると思います。
神の国が近づいた
イエス様は言われました。神の国が近づいたと。神の国の根本的な意味は、神の御支配と言うことです。
ギリシャ語では、「国」ということは、バシレイアであり、これはバシレウス(王)という言葉から作られていることからわかるように、「(王の)支配」といった意味なのである。そこから、その支配が及ぶ領域という意味も持つようになった。
この世界はすべて神の創られたものであり、すべてが神の支配の中にありました。この時点では、「世界=神の国」だったのです。しかし、人は神の命令に逆らいました。この神の支配から離れてしまったのです。イエス様は、この世界を再び、神の支配の下の置くためにこの地上に来てくださったのです。
しかし、その方法は、弟子たちや他のユダヤ人たちが考えていたものとは違いました。当時の人々は、武力で、政治的な王国を作ることを考えていました。神がローマ帝国の支配を覆して、ダビデのような王を立てて支配される。メシアとは、その様な政治的な王だと考えていたのです。
しかし、イエス様が語ろうとする神の国は違います。ルカの福音書では次のように言っています。
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカの福音書17;20~21)
「神の国はあなたがたのただ中にある。」…難しい表現ですね。
私たちが神に従うとき、そこに神の国があるというのです。神の支配が及ぶところが神の国なのですから、私たちの心が神に従うようになれば、その心の中に神の国があるといえるのではないでしょうか。
このマルコの福音書でもいろいろ語られていますが、4章を見てみたいと思います。
またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、
夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。
地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。
実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」
またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。
それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、
蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」(マルコの福音書4:26~32)
ここに二つのたとえがなされていますが、どちらも植物の生長に例えられていますね。神の国は、知らないうちに少しずつ少しずつ成長していくものだと教えられています。力で、王国を打ち立てるのとは全く正反対なのです。
神様は、私たちの心の中に、真理の種とも言うべきものを蒔かれます。どんなにかすかな小さな神を求める思いであっても、それらが少しずつ成長していき、やがて芽を出し、その人の人生を変えるものになっていくのです。
イエス様は、もう一度、目に見える形でおいでになると約束してくださいました。それを私たちは再臨と呼びます。そのとき、この地上は、完全に神様の支配下に置かれます。この地上がそのまま神の国となるのです。
神の国は、信じる者の心の中にすでに来ているものですが、やがてまた来るものでもあります。
網を捨てて、イエスに従った
イエス様は、シモンとアンデレの兄弟。及びヤコブとヨハネに会い、彼らに呼びかけます。彼らは、イエス様に従いついて行きます。彼らこそ後に12使徒となり、3年半の間イエス様と共に過ごすようになります。イエス様は十字架に疲れたとき怖くなって逃げ出してしまいました。しかし、復活したイエス様と出会い、全く変えられて行きます。その後の教会の中心になっていく人々です。
イエス様に従うこと、すなわち神の支配下に置かれていくところから、神の国は始まっていくのです。
それにしても彼らは、「すぐに網を捨てて」イエスに従ったと書かれています。「網」とは生活の手段ですね。彼らは漁師なのですから。仕事を捨てると言うことはすべてを捨てると言うことに等しいのではないでしょうか。それをすぐに決断し実行している。それだけのものをイエス様に感じたのでしょう。
イエス様に従うと言うことには犠牲が伴います。彼らのようにすべてを捨てる人たちはそう多くないでしょう。でも、クリスチャンになることはすべてよいことだけとは限りません。多くの人が経験するのは、家族の反対でしょう。職場の同僚や友人なら「いいことじゃない」くらいに入ってくれていても、身近な人がクリスチャンになると途端に反対する人もいます。無宗教といい、そういう行事にもあまり熱心でなかった父ですか、クリスチャンになることには反対だったようです。でも、埼玉に出てきて一人暮らししていましたから、一言二言言ったくらいで終わりました。でも群馬で一緒に住んでいたら、集会に集うにはかなりの困難が生じたかも知れません。
続いて時間でしょうか。教会に集う時間は他のことが出来ません。日曜日にやりたいことにも制限がかかります。
すべてを捨ててもあまりある価値
しかし、イエス様は言います。さらに優れた素晴らしい価値があるのだと。マタイの福音書13章をお読みします。
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。(マタイの福音書13:44~46)
ここには、二つのたとえがありますが、結局同じ意味だと思います。すべてを捨ててもあまりある価値があるというのです。これは永遠の問題です。
私たちはいろいろとつい心配してしまいますね。しかし私たちは一人ではありません。神は、いつも共にいてくださり、一つ一つ問題を解決してくださり、さらに優れた恵み、祝福を与えてくださるのです。
イエス様は言われます。
「神の国とその儀とをまず第一に求めなさい。そうすればこれらのものはすべて、それに加えて与えられます。」