ホザナ会④ 近代人に不評な奇蹟と悪霊

それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。

人々はその教えに驚いた。イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者として 教えられたからである。

ちょうどそのとき、汚れた霊にとりつかれた人がその会堂にて、こう叫んだ。

「ナザレのイエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのです か。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」

イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。 人々はみな驚いて、互いに論じ合った。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この型が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」 こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。

(マルコの福音書1:21~28)

近代人に不評な奇蹟と悪霊

今日の箇所は、イエス様が、たくさんの悪霊を追い出し、病気を治したという記事で す。みなさんは、こういう記事を読んでどう感じるでしょうか。クリスチャンになってから長 いと、あるいは聖書に触れてから長いとこういう奇蹟についてもそれほど抵抗がなくなっ ているかも知れません。

でも、こうした話に慣れていないと、奇蹟に対する抵抗感はなかなか強いように思いま す。といっても個人差があるでしょう。理屈っぽい人は特にそうでしょうし、また女性より男 性の方が強いかも知れません。

ロシアの小説家に、トルストイという人がいます。

「戦争と平和」「アンナカレーニナ」などの小説を書いた人で、読んでいなくても名前だ けは知っている方が多いと思います。これらは相当な長編大作なので読むのは大変で すが、「イワンの馬鹿」など民話風の短い物語もたくさん書いています。これらは、聖書の 影響を受けておりとても読みやすいと思います。

トルストイは、聖書の影響を受け、大地主に生まれながら、山上の説教をそのまま実行 しようとし、貧しい農奴たちの生活を何とかしようと考えたのですが、家族に反対されてしまいました。

トルストイは、山上の説教のような部分、「敵を愛しなさい」とか、「貧しい人を助けなさ い」とかという所は真剣に受け止めて実行しようとしましたが、今日のような箇所は、その まま受け止めようとしませんでした。

彼にとっての聖書の教えとは、道徳的な教えでした。ただ、その受け止め方が他の人 と違って真剣で徹底的なものでした。彼に影響された人々の中には、「殺すな」という聖 書に従って兵役を拒否し、そのために銃殺されてしまった人もいたそうです。殺すより、 殺される方がいいというのですから、真剣なものだったことは確かです。

このトルストイは、極端でしょうが、同じように聖書を道徳の教科書のように考えている 人は少なくないのではないでしょうか。このような考え方の背景には、科学が発達し、理 性を重視した近代主義があるように思います。理性に従って、合理的でないものをすべ て排除していこうとする態度です。現代では、理性に絶対的な信頼を置く音はできなくな りましたが、この名残があるように思います。特に日本では、聖書の、こうした奇蹟の話に なると受け付けなくなる方も少なくないように思います。

なおも力を持つ占い

しかし、自分は合理的だと思っている人が変な縁起を担いだりするんですよね。 自分は晴れ女、雨男なんて言ったりしています。みなさんも聞いたことがあるでしょう。

どこまで真剣なのかよくわかりませんが。ただネットの中には、この雨女とかには、「自然 霊」がついているなんて書かれている者もあるから要注意です。現代でも、「霊」は遠い 存在ではないように思います。現代日本において、最も霊に近いのは「占い」ではないか と思いますがいかがでしょうか。

「占いブーム」なんて言われたときもあったようですが、今はどうなのでしょうか。ネット で少し見たのですが、いろいろな種類の占いがあり、それぞれのブームがあるようです が、占い自体はずっと一定の人気を持っているようです。

みなさんは、占いをしたことがありますか。

私は、ずーっと昔、大学時代ちょっとかじってみました。といっても、本を2冊ほど買っ て読んだくらいのものです。タロットカードつきのタロット占いの本。それと易占いの本で すね。なかなか面白かったように記憶していますが、大学と一緒に卒業しました。あまり 深みに入らないうちに卒業できたのは幸いでした。

多くの占いは、心理的な分析だったり、カウンセリングに近いものだったりします。あた ると思わせるテクニックがあるのです。一つは誰にでも当てはまる曖昧な言い方です。

<誰にでも当てはまるような言葉かけの例>

“「急ぎすぎた為に、あまりよくない結果になった事がありましたね。ただしその結果も今のあなたを作った大事な経験ではないでしょうか」”

“「あなたは冷静な人ですね、でも時折普段と同じように判断出来ない事もあるのではないですか」”

“「あなたは情の深い人ですね、ただ周りにそれをきちんと伝えるのが苦手なのではないでしょうか」”

・・・人は誰であれ多少はこういう面を持っていますよね。あたっている部分が少しでも あれば、あたっているように思い込んでしまう。そんな心理をうまく突いているのです。

また話を進めながら情報を集めていきます。外れていても、外れたと思わせないテクニ ックがあるようです。

<外れても話を進めてしまう例>

“「あなたは、ペットは飼っていませんよね」というとします。 ペットを飼っている人が聞いたら、「そうです。飼ってます。なんで分かるんですか!?」と、相手の占いを信じてしまいます。”

“ちなみに、もし、ペットを飼っていない人であっても、「いや、飼っていませんが」とこた えたときに、「そうですよね、飼っていませんよね」と話が流されます。”

そうやって大体の人が当てはまりそうなものから反応を見ながら絞っていきます。

男性だったら「仕事で悩んでいませんか」女性だったら「恋愛」などですね。相手の反 応を見ながら関心の高そうなものを挙げていけばあたったように見えるでしょう。たといは ずれても、大丈夫です。

こんな占いのテクニックもうまく利用すれば決して悪いものではないように思います。 <占いを禁じている聖書 しかし、聖書は、占いを禁じています。申命記18:10~14を読んでみましょう。

あなたのうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、まじない 師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があって はならない。これらのことを行う者はみな、【主】が忌み嫌われるからである。これらの忌 み嫌うべきことのゆえに、あなたの神、【主】はあなたの前から彼らを追い払われるのであ る。

あなたは、あなたの神、【主】のもとで全き者でなければならない。 確かに、あなたが追い払おうとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従っ てきた。しかし、あなたの神、【主】はあなたがそうすることを許さない。

(申命記18:10~ 14)

なぜ、聖書は占いを禁じるのでしょうか。

占いの多くは、人生相談的なものであり、テクニックを使って情報を聞き出し、それに 対して適切なアドバイスをすると言うことが多いようです。また、占ってもらう方も、そうした 人生相談的なものを期待していることが多いのでしょう。アドバイスも結構まともなものが 多いことを考えるとそんなに害もないと思うかも知れません。

占いとは、基本的に目に見えない力を前提にしているのです。タロット占い、トランプ 占いなどにしても「偶然」に引いたカードから未来を考えるわけです。その「偶然」に何ら かの力が働いたと考えるわけです。まあ、ほとんどの場合、単なる偶然に、勝手に意味を つけ、先ほど言ったテクニックや人生経験を元にアドバイスをするというわけです。だか ら、1回2回こうした占いをしたところで大きな問題はないと考えるかも知れません。しか し、それを続けていくとそうした目に見えない力、霊的世界の心を許していくことになり、 それらが働くことにつながっていくのです。

特に、本当にあたるといわれているものは要注意です。そういったものは、霊の世界と つながっている可能性があるからです。

霊の世界は存在する

現代にも悪霊は、存在するのです。日本では、そんなことを言うとおかしいと思われる 人が多いかも知れません。でも、先日、インドネシアに宣教に行っている人の証しを聞き ました。そこでは、ここに記されているような悪霊が生きて働いているというのです。最初 見たときは信じられなかったそうですが、何度も見るうちに信じざるを得なかったそうで す。

日本においても悪霊は存在します。ただ、日本ではむしろそういったものの存在を信 じないように仕向けているようにも思います。そうしたことが馬鹿らしい戯言と思わせ、そう したことの書かれている聖書に対する信頼をも疑わせる。そういう戦略なのかも知れませ ん。悪霊、悪魔の目的は、私たちを神から遠ざけるためですから、そのためには何だっ てすると思います。

圧倒的な

悪霊の存在を否定したり、無視するのは危険です。けれども必要以上に恐れる必要は ありません。なぜなら、神と悪魔の間には、圧倒的な力の差があるからです。

私たちは、いろいろなドラマを見ていて影響されます。善と悪の対決なんて、映画によ くある主題で、クライマックスでは、主役と悪の親玉との対決があり、ギリギリのところで主 役が勝つというのが定番です。こういうイメージに影響されて悪魔や悪霊の力を大きく見 過ぎないようにしてほしいのです。

聖書は言っています。「闇は光に打ち勝たなかった。」どんな闇も、光が来れば消えて なくなるのです。

今日の箇所でも、イエス様は、一言命じるだけです。「黙れ、この人から出て行け!」そ れだけで悪霊は出て行きます。悪霊には逆らう力などないのです。

だから人々は驚きます。なんと権威ある教えだと。 私たちが、神とともにあるとき、悪魔や悪霊は全く手出しができません。

権威と権力

「権威ある教え」と人々は驚きました。この「権威」とはどういう意味でしょうか。 昔「権威と権力」という本を読んだことがあります。岩波新書になっているらしいです

が。なかなか面白かったように記憶しています。 権威と権力の違いがわかりますか。ネットでは次のように説明していました。

権力とは

他人を支配し、服従させる力。支配者が(組織・富・武力などを背景として)被支配者に 加える強制力。

権威とは、

1、すぐれた者として、他人を威圧して自分に従わせる威力。また、万人が認めて従わ なければならないような価値の力。

2、専門の知識・技術について、その方面で最高の人だと一般に認められている人。 大家。

違いは、相手の承認があるかないかという違いです。

同じように意見を言っても人によって影響力が違いますね。例えば、「猫」に対する意 見は、(当集会の)A さんが言うことが他の人の意見よりも信頼されますよね。病気に関し ては看護師である I さんの意見を参考にしますね。でもそれ以上にお医者さんの意見が 権威を持つと言うことになります。

イエス様は、「権威ある者」として語られたとあります。神であられる方が人としてきてくださった。その上からの権威でしょうか。

ただ、この時点ではだれ一人イエス様が神ご自身であると信じる者はいなかったはずです。それでも聞いた人々はその権威を感じたのです。律法の専門家である学者たち にはない「権威」を。

ペテロたちもそれを感じたのでしょう。そうでなければ、「私についてきなさい。人間をと る漁師にしてあげよう。」といわれただけで、仕事も家族もすべて捨ててすぐイエス様に 従うことなどあり得ないはずです。 私たちは、この神の権威、イエス様の権威を知っているでしょうか。それはいやいやながら、強制的に従わせるものでなく、喜んで進んで従わせる力です。この方の 権威に従うとき、この世のどんな権威も恐れる必要はありません。悪霊たちも手を 出すことができません。このお方を信じて従っていきたいと思います。

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

このページの先頭へ