ホザナ会⑥あなたの罪は赦された

数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。

それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れてきた。彼は四人の人に担がれていた。

彼らは群衆のためにイエスにちかづくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。

「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかにだれが罪を赦すことができるだろうか。」彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。

中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなたがたが知るために――――。」そう言って、中風の人に言われた。

「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」

すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それでミナは驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。(マルコの福音書2:1~12)

家に戻ると

イエス様は、カペナウムに来られたとあります。家におられることが知れ渡ったとありますが、注解書によるとどうもそれはペテロの家であろうと言うことです。1章でも、会堂からすぐ立ち寄ったペテロの家。再びカペナウムというのですから、ペテロに家というのが自然なのでしょうね。

しかし、イエス様は、もう有名人です。各地で病を治し、悪霊を追い出しておられたのですから。多くの人が駆けつけ、戸口のところまで隙間もないほどになったというのです。イエス様は、御言葉を話しておられたとあります。イエス様の目的はこの御言葉を語ることです。人々の期待、目的がどうあろうとも決してぶれません。

中風の人

そこで事件が起こります。人々が中風の人を連れてきました。「中風」と言う言葉を最近あまり聞かないように思います。ネットで調べてみました。

それによりますと…

脳卒中による片麻痺や言語障害を指します。

「風に中(あ)たった」が字義ですが,風が麻痺の原因になると考えられていた名残です。「風邪」も「中風」も語源は「風」にあります。古代中国では,大気の動きだけでなく,身体に何らかの影響を及ぼす原因としての大気,そして,その影響を受けて生じる身体の状態も「風」と呼びました。

今では、脳卒中、脳梗塞とか、脳出血の後遺症で全身麻痺した状態なのでしょう。風が麻痺の原因になると考えられていたというはちょっと驚きですね。

そうした病気によって全身麻痺した人が、4人の人に担がれてきたというわけです。しかし、あまりにも人が多いので近づくことができない。そこで屋根に登りその屋根を剥がして、病人をつり下ろしたというのです。

「屋根を剥がす」。日本の家を考えるととても考えにくいのですが、当時の家は、ちょっと違うようです。注解書によると、当時の家の屋根は、「柱の上に木の枝を渡しむしろなどの敷物を敷きその上に土を持って踏み固めただけ」のもだそうです。

日本の屋根を壊すよりも晴夏に簡単かも知れません。でも、勝手に登っていって屋根を壊しそこからつり下ろすのは、誰にもできることではありません。それだけの勇気が必要です。そしてなにより、この人をなんとか治してもらいたいという思いの強さがあったのだろうと思います。目の前に下ろせばなんとかしてくださるのではという信仰もあったことでしょう。

あなたの罪は赦された

イエス様はその信仰を見て、言います。「あなたの罪は赦された。」これは今日の最大のキーワードとなります。誰も予想していない言葉が飛び出したのです。

この中風の人とその友人たちは、ただこの病気が癒やされることを求めてやってきたのです。イエス様のまわりに集まってきた人々も、いやしや奇蹟を求めてのことでしょう。

9節の『起きて、寝床をたたんで歩け』と言う言葉を誰も期待し、予想していたのではないでしょうか。そしてその言葉なら、律法学者たちも何も言わなかったでしょう。にもかかわらず、イエス様は、宣言します。

「あなたの罪は赦された。」

罪と病気の関係

ここで、罪と病気との関係を指摘する人がいます。時に、精神的な問題は、肉体的な不調の原因になったりします。当時の人々は、病気の原因を罪に求めるという考えもよくありました。ヨハネの福音書9章では、弟子たちが生まれつきも盲人について、その原因はこの人かその両親のどちらが罪を犯したのかと尋ねました。それに対してイエス様は、そのどちらでもまく、神の栄光が現れるためだと答えています。この時も、中風の原因が罪にあったと考えられないこともないのですが、それに限定する必要はないともいます。

罪を赦す権威があることを知るために

では、なぜあえて「罪は赦された」と宣言したのか。私は、その答えは、10節にあると思います。すなわち、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るため」です。

イエス様がこの地上に来たのは、まさにこのためでした。人々の罪は全世界に拡がってしまいました。かつては、大洪水によってノアとその家族以外を滅ぼしました。しかしイエス・キリストは、この全人類を救うために、罪の赦しを与えるために来たのでした。

しかし、人々はこのことを理解していませんでした。確かに、人々はイエス様のまわりに集まっていました。1章でも、そして今日の箇所でも。しかし、その目的は、イエス様が病気を治したり、悪霊を追い出したりするのを見るためでした。

でも、そのことだけで一杯になってほしくなかった。だから、イエス様は、1章の後半で、病気を治した人に、誰にも何も言わないように注意したのです。でも、これって難しいのです。すごいことをしてもらったら、興奮して、言わずにはいられなくなってしまうものですね。その結果として、たくさんの人々がイエス様のまわりに集まってきていたのです。

そうしたみんなの期待の通り、病気を癒やすことではなく、まず罪の赦しを宣言したというのは、注目をいやしよりも罪の赦しに向けたかったのではないでしょうか。

神の他に誰が罪を赦すことができよう

この言葉に過剰に反応したのは、律法学者たちでした。それは神への冒瀆と考えたこのです。

「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」この律法学者の考えは正しいことです。罪は神に対するものです。許す、許さないは、当然神のみにできることなのです。問題は、それを言ったイエス様とは誰かと言うことなのです。イエスをただの人間と考える限り、確かに冒瀆以外の何物でもないでしょう。

どちらが易しいか

そこで、イエス様は、律法学者たちに問いかけます。

「中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と。

こう聞かれたらみなさんはどう答えますか。

口で言うだけならどちらも易しいですね。罪の赦しも、病気は治ったと宣言するだけなら誰にでもできます。でも口先だけでは何の意味もありません。

律法学者たちは、ただの人間が罪を赦しの宣言をするなんて冒瀆だという。しかし、病気を癒やすことならたいしたことがないのか。ただの人間に病気を癒やすことはたやすいことなのか。

結論から言えば、どちらも普通の人には難しいことです。けれど、一つだけ違うことがある。それは病気のいやしは目に見えると言うことです。

「歩きなさい」そう言われて病人は、立ち上がって歩き出しました。イエスの言葉は、ただの言葉でなかったのです。病気を癒やし、悪霊を追い出す権威を持つイエス様は、罪を赦す権威を持っているのだ。こう宣言したのです。

男が立ち上がって出て行ったとき、みなは驚き神をあがめたとあります。この事実を見ては律法学者たちも何も言えなくなってしまったと思います。

問題を通して神に近づく

この中風の人及び彼の友人たちたちは、この病気のゆえにイエスの元に来ました。健康な体であったなら、この出会いはなかったに違いありません。

病気とか、いろいろなトラブルに遭ったことがきっかけで神とであうことができたと言う証しをよく聞きます。問題が大きければ大きいほど必死になります。屋根を壊してもというのはよほどの覚悟ですね。

問題を解決してほしくて、神に近づく。しかし、神様が本当に望んでいるのは、その問題そのものの解決よりも、「罪の赦し」すなわち、神との関係の解決です。この人は、罪の赦しと問題、すなわち病気のいやしも共に得ることができました。でも、時には元になった問題自体は解決していないと言うこともよくあるのです。

星野富弘さん

星野富弘さんのことはみなさんもよく知っていますね。体育の先生をしていたとき、事故に遭ってしまい、首から下が動かなくなってしまいました。この大きな試練の中で、神とであうことができました。この中風の人と同じように「あなたの罪は赦された。」と言う言葉を聞き信じ受け入れたのです。しかし、「起きて歩きなさい」という言葉はありませんでした。信じてクリスチャンになってからも、首から下が動かないと言うことは変わらなかったのです。しかし、彼は動くところ、口を使って絵を描くようになりました。その絵はなんと多くの人に影響を与えていることでしょう。

本当に大切なものは目に見えないもの

「星の王子さま」という本があります。まだ読んだことがないのですが、そのなかで有名な言葉が、「本当に大切なものは、この中に入っている目に見えない何かなんだ。」です。ちょっと考えさせられる言葉ではないでしょうか。

私たちは、どうしても目に見えるものにばかり気をとられてしまいがちではないでしょうか。イエス様のまわりに集まってきた人々は、ほとんどが奇蹟を見たいためだったのだと思います。神様との関係を見直したい、神様と出会いたいなどと考えていた人がいたでしょうか。私たちもその人々とあまり変わらないような気がします。

しかし、聖書は言っています。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(Ⅱコリント人への手紙4:18)

どんなに大きなことに見える、実際に大きな事柄であっても、見えるものは一時的だというのです。見えないもの、神様との関係は永遠に続くのです。これをどれだけ意識して生きることができるか、それが大事なのではないでしょうか。

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

このページの先頭へ