ホザナ会⑦ 医者と花嫁


イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従ったのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。そこで、人々はイエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」
イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。
しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。
だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、次切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」
(マルコの福音書2:14~22)


新しいイエスの姿

今、マルコの福音書を読んでいますが、マルコは、いろいろな形でイエス様の姿を紹介しています。大切なのは、このお方がどういうお方かなのです。今日の箇所、2章14節から22節では、どういう形で示そうとしているのでしょうか。

レビ

イエス様は、道を通りながらレビという人に声をかけます。「私についてきなさい」この言葉は、ペテロたちにかけた言葉と同じですね。
レビについては、一つのことだけ確認させていただきたいと思います。

ここで言う取税人とは、 当時、ユダヤの地方を支配していたローマ帝国に依頼されて税金を集める人々です。ユダヤ人たちにしてみれば、自分たちを支配するローマ人の手先となって税金を集める人々は、民族を裏切る売国奴というイメージでしょう。そういう差別を受ける道をあえて選んだ取税人たちは、その見返りとして、余分に集めたりもしていました。だから彼らにはお金はありました。しかし、罪人と同じものと見なされていたのです。
そうした取税人の1人がレビでした。イエス様の「私についてきなさい」という呼びかけに答えたのです。

なぜ、罪人と食事をするのか

それからイエスは、レビの家で食卓に着かれたと書かれています。レビは、イエス様によばれて、ついて行ったのですが、ここでは、イエス様たちをもてなしています。イエス様に頼まれてのことなのか、自発的なのかはよくわかりません。ただわかっているのは、たくさんの人たちがいたと言うことです。それだけの人を招くことができたのだから、レビにはそれだけお金があったと言うことでしょうか。
その中に、取税人たちがいたのは当然のことかも知れません。レビの元の同業者ですから。
それを見ていたのがパリサイ人でした。そして、批判します。「なぜ、取税人や罪人と一緒に食事をするのか」
一般的にはイエスは、律法の教師ラビとみられていたようです。そのイエスが、取税人、罪人たちと一緒に食事をする。それは、彼らには、信じがたいことでした。このパリサイ人たちの態度をみなさんはどう感じますか。私たちは、パリサイ人と言うだけで、否定的、批判的にとらえがちです。それだと、取税人、罪人と言うだけで拒絶した当時の人々と同じような気もします。


私たちは、自分の子どもとかが、非行とかよくないことをしている人と一緒にいたらどう思いますか。
朱に交われば赤くなると言います。私たちは、友達を選びなさいと言いますね。悪い友達と一緒にいれば、その影響を受けて私たちも悪い行動をするようになりやすいのです。
伝染病の人がいたら、あえて近づく人はいないでしょう。何年か前のお正月。私はインフルエンザになってしまいました。薬が効いて熱もすぐ下がったのですが、当然、家族とは隔離です。食事等を妻が持ってきてくれて、そのためでしょうか、妻にうつってしまいました。
こういう点からすれば、パリサイ人たちの考えは普通ではないでしょうか。


医者を必要とするのは、病人です。
どんな伝染病の人でも近づく人がいます。それは医者です。近づかなかったら、治すことができないからです。

イエス様は、宣言します。ご自分が医者であることを。だから、病人のところに行くのだ。罪人を許すために、罪人を招いているのだと。
イエス様は、これまでもたくさんの病気を癒やしてきました。そして、前回でも示したとおり、罪を赦す権威を持っておられる方です。罪に負け、誘惑されるような方ではありません。私たちだったら、罪人たちと交わるとその影響を受け、誘惑されてしまう恐れもあります。しかし、イエス様は、罪を赦すために、罪人を招くために来られたのです。

丈夫な人とは


イエス様は、医者です。病気を治すために来たのです。「丈夫な人に医者はいらない」その通りですね。ところで、丈夫な人って誰のことでしょうか。罪のない人と言い換えることができるでしょう。そんな人いるのですか。
ヨハネ8章を読んでみましょう。

イエスはオリーブ山に行かれた。
そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネの福音書8:1~11)



「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」とイエスに言われたとき、誰も石を投げることができませんでした。

つまり、自分には罪がないといえる人は誰もいなかったのです。
今更、罪人から離れて身を清く保とうとしても無駄なのです。

もうすでに罪人なのですから。すべての人は、イエス様の元に行って、病気を治す、つまり罪を赦してもらう必要があるのです。

断食


18節からは、また別の話になります。バブテスマのヨハネの弟子と、パリサイ人たちは断食をしていたと書かれています。全く異なったグループですが、「断食」と言うことでは共通していたようです。そこで「なぜ、断食しないのか」という質問が出てくるのです。
立場は違っても、神に熱心な人なら、当然断食をすべきだという認識があったのでしょうね。
旧約聖書では、断食は、もともと、身を悩ますという意味だそうです。年に一度の大贖罪日に国民的に断食をするように規定されています。神の箱がペリシテ人によって奪われたとき、イナゴの大群で大きな被害を受けたとき、またサウル王たちが戦死したときなどの国家的危機には断食をしたようです。
自らの責任、罪を意識して断食した。ですから、断食は、罪を悔い、自ら身を苦しめることによって神のあわれみと赦しを仰ぐ営みとしてなされた。
人間の方から神に近づこうとすれば、断食などによって自らの身を苦しめ、悔い改めていると言うことを現すべきであると言うことになる。

なのに、なぜ断食をしないのかと尋ねたのです。

花婿


それに対するイエスの答えは、予想外のものでした。「花婿がいるのに、どうして断食できるだろうか」と言うのです。ここで、イエス様は、自らを花婿であると宣言しているのです。
人間が神に近づくのではなく、神の方で、人々の間に住まわれるのです。人のところに来てくださった神ご自身と共にあることを喜ぶべきであり、悔い改め、悲しみのしるしである断食は必要ないと言うことになるのです。
イエスは、花婿として、私たちのところに来てくださいました。私たちを愛するために、私たちを招待してくださっているのです。それなのに、資格がないとか、努力が足りないとか、尻込みしたりしていませんか。私はあなたと一緒にいたいのだ。一緒に喜び楽しみたいのだと言うのです。すべての必要はすべて用意されています。私たちはただ、それを受け入れるだけでいいのです。

新しい葡萄酒は、新しい皮袋


イエス様は最後に、新しい葡萄酒は、新しい皮袋に入れると言いました。これは一つのチャレンジですね。私たちは、どうしても慣れ親しんだ思考法から抜け出せない性質を持っているのです。

当時の人々も同じでした。今まで教えられていた伝統的、律法主義的な考え方では、イエス様を受け入れることができないのです。医者として、病を癒やすために、すべての罪を赦すために来られたイエス様、花婿として神の方から、私たちの方に来てくださったイエス様。それは、古い考え方では受け止めることができませんでした。
私たちも、古い日本的な考え方では、天地を作られた聖書の神を正しく理解できないところがあるのではないでしょうか。

最後に第2コリント5章17節を読んで終わりにしたいと思います。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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