ホザナ会⑧ 安息日

ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」
イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
イエスは、片手の萎えた人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。
(マルコの福音書2:23~3:6)

今日の箇所は、2章から3章にまたがっています。二つの出来事があるのですが、共通点があるので、一緒に考えたいと思います。それは安息日です。


2章での話は、弟子たちが畑の麦を積み始めたことを注意されました。人のものを勝手にとったので注意されたのではないのです。それが安息日だからいけないというわけです。安息日とは、十戒の第4番目のもので、安息日、すなわち土曜日には一切の仕事をしてはいけないというものです。弟子たちが穂を摘んだのは、この安息日にしてはいけないという仕事に当たるというわけです。
3章では、会堂に手の萎えた人を治すことが問題でした。人の病気を治すこともやはり安息日にしてはいけない仕事に当たると言うことです。
当時のユダヤ人の指導者たちは、安息にという当時のルールを破ったと言うことでイエス様を非難しているのです。

決まりについて


みなさんは、ルール、決まりについてどう感じますか。社会は、決まりを守らないと成り立ちません。必要なことですが、でも決まりが好きという人も少ないのではないでしょうか。守って当たり前、破ると叱られる。そんなことも原因になっているかも知れません。
まあ、どんな決まりかその内容にもよるでしょう。中にはとんでもないものもあるのです。インターネットで見つけたのが次のような変な校則です。

<変な校則>
1「先生が教室に入ってくる時は、拍手で迎えなければならない」
2「教室での私語は授業中、休み時間問わず禁止」
3「校内で異性と会話する場合は、会話用紙を提出し許可をもらい、会話室で会話をすること」
4「男女交際をする際は、6者面談すること」
5「授業中のくしゃみは3回まで。それ以上出る者は保健室で休む」
6「マンガを持ってきてはいけないが、担任に貸す場合は認める」
7「目的もないのに廊下を歩かない」
8「一度登録した髪型は、卒業時まで変えてはならない」
9「靴下は金か銀以外ならいい。」
10「液晶テレビは持ってこない」


以下80までありましたが、面白いものが多いです。中には、当然のことだけれど校則にしなくてもなんてものもありますが。
『ブラック校則』と言う本も今年の8月に出版されたそうです。変な校則は、過去の問題でなく現在のもののようです。

安息日とは


少し脱線してしまいました。今日の安息日という決まりは、このようなとんでもないルールではありません。神によって定められた聖書にある決まり、律法です。
聖書では、この安息日についていろいろ書かれています。割と重要視されているように思います。十戒の中には、次のように書かれています。出エジプト記です。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
(出エジプト記20:8~11)

同じく出エジプト記ですが、31章に安息日についてだけ書かれています。

「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが【主】であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。
あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。
六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは【主】が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」
(出エジプト記31:13~17)

違反者を罰するようにとまで書かれています。かなり強い命令ですね。これがイエス様を殺すべきだという根拠にしたのかも知れません。
この箇所でもう一つ注目すべきなのは、安息日の目的です。13節にはっきり書かれていますね。『私が主であり、あなたがたを聖別するものであることをあなたがたが知るためである。』リビングバイブルの訳だと「安息日は、おまえと私の間の契約を永遠に思い出させるものである。私が神であり、おまえたちを聖なる国民とするものであることを、安息日は思い出させてくれる。」
しかし、考えてみると安息日とはかなりユニークな命令です。『仕事をしてはいけない』そんな決まりを私は他に知りません。これが守られれば『過労死』なんてなくなるでしょう。特に出エジプト記20:10では、奴隷も家畜も働かせてはならないことになっています。人権なんて認められていないような弱い立場の人にも適用されるというわけなんですね。
イスラエルでは、今もこの安息日が守られているようです。厳格に守る人とそうでない人と程度には差があるようですが。

細かく決められた規則


しかし、『決まり』は、本来の目的を離れて使われることがあります。
先のとんでもない校則でさえ、元は生徒のために考えられたのかも知れません。けれど、細かく決めると、ちょっと行き過ぎと思えますね。
ものを大切にするようにと言う気持ちはわかりますが、83「トイレットペーパーの使用量は1回につけ30センチ以内。」なんて言うのはいかがなものでしょうか。トイレに行ったままサボる生徒もいたのでしょうが、だからといってトイレの時間は、何分以内。などと校則にしてしまうと、ちょっとどうかと思います。


安息日の規定も似たようなところから来ているように思えます。『仕事をしてはいけない』では、どこからが仕事なのか。何はしてよくて何はだめなのか。どんどん細かくされていきます。例えばたくさん歩くのも仕事に入ると考えたようです。そうすると、何歩以上は仕事と決めます。従って安息日にはそれ以上歩いてはいけないというわけです。


聖書の中に『安息日の道のり』と言うのが出てきます。(使徒1:12)新しい訳ですと『安息日に歩くことが許される道のり』とわかりやすくなっています。こうやって細かく決めていくと、本来の意義、目的が見失われてしまうと言うことはよくあるのです。


弟子たちが穂を摘んだのは、仕事なのでしょうか。単にお腹がすいただけの話ではと思うのですが、パリサイ人の基準では、禁じられている仕事にあたるというのです。3章の話も同じですね。命に関わるものでない治療は仕事に当たるので安息日には禁じられていると考えられていたそうです。

安息日は人のためにある


イエス様は、言います。

そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。」

これはすごく大切な指摘ですね。どんな決まりも人間のために作られたのであり、決まりのために人間がいるのではないのです。もちろん、決まりを無視していいというわけではありません。しかし、その決まりは何のためにあるのかをよくよく考えるべきです。
神様の作られた決まり、律法でさえ、人間のために作られたというのは驚くべき指摘だと思います。
決まりがあると、それが個人よりも優先されると言うことはよくあるように思います。また、日本では特に組織が重視され、個人の都合は二の次にされがちです。組織の中で、まるで歯車のように小さな存在になってしまっている、それが現代の特徴かも知れません。そういうときだからこそ、『安息日は人のためにある』と言うことばは重要だと思います。
大切なのは、人間です。あなたです。私の目にはあなたは高価で貴いと神は言われます。

安息日にかなっているのは


人を生かすための安息日が人を殺すためになっているのです。ユダヤ人の会堂に片手の萎えた人がいました。人々はその人をじっと見ていました。でも、それはその人のことを思ってのことではなかった。イエスが安息日の決まりを破るかどうかにしか関心がなかったのです。
それを知ってイエス様は挑戦されます。その片手の萎えた人を真ん中に立たせるのです。それからみんなに聞くのです。

「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」

「殺すことなのか、救うことなのか。」鋭い指摘ですね。
律法にかなうことが「殺すこと」だなんて誰も考えるわけがありません。けれど、自分の考えを変えることはできず、イエスの行動を認めるわけにはいかない。それで黙っているしかなくなったのですね。
だからイエス様は、彼らの心を怒られると同時に嘆き悲しまれたのですね。
パリサイ人たちは、イエス様がその人を癒やされるのを見て、自分とは全く違う立場のヘロデ等の者たちとイエスをどうやって殺そうかと相談を始めるのです。安息日に『殺す』ことを考え始めてしまうのです。

私たちと安息日


ユダヤ人たちが守ってきた、いや今も守っている安息日とは、7番目の日、すなわち土曜日です。しかし、教会は、イエス様の復活を記念して日曜日に集まるようになりました。安息日はあくまでも土曜日であり、土曜日に集まるべきだという人たちも確かに存在するのですが、キリスト教の伝統は、日曜日を主日として守ってきました。
『安息日を守りなさい。』この律法にとらわれる必要はないかも知れませんが、やはり仕事を離れ、神様を覚える日が私たちに必要な気がします。聖書は勧めています。
ヘブル

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
(へブル人への手紙10:25)

最も大切な戒め

律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
(マルコの福音書12:28~31)

主はモーセに告げられた。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるしである。わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなた方が知るためである。
あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。
六日間は仕事をする。しかし、七日目は主の聖なる全き安息である。安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」
(出エジプト記31章12~17節)

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