ホザナ会⑩聖霊と悪霊


さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まったので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪魔どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
そこでイエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。
「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。まず強いものを縛り上げなければ、だれも、強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。
まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も許していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし、聖霊を冒涜する者は、誰でも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。大勢の人かがイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟とは誰でしょうか」と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
(マルコの福音書3:20~35)



イエスがおかしくなった?

マルコの福音書3章21節で、イエスの身内の者たちは、連れ戻しに出かけたと書かれています。これは、31節の母と兄弟たちのことでしょうか。『イエスは、おかしくなった』と聞いたからです。
30歳まで大工だった人が突然出かけ、話をしたり病気を治したりする。たくさんの群衆に取り囲まれ、食事すら暇もないという。確かにおかしくなったと思われても仕方がないと思います。

私たちは、信仰を持つ前と後でどう変わったでしょうか。あまり変わらなかったという場合もあるでしょう。変化が大きすぎるとまわりが心配しますね。信仰もいいけれどほどほどにね。これが結構ブレーキになったりします。食事をとる暇すらないという日常生活までおかしくなると、びっくりするでしょう。まわりをびっくりさせすぎるのも問題ですが、第一の者を第一にするという姿勢は、大切にしていきたいですね。

英会話教室にⅯさんという人が来ていました。一度日曜日集会にも来ましたが、台湾の人で、去年9月台湾に帰りました。それが先月突然、英会話教室に来たのです。息子さんが日本にいるので、行ったり来たりするようです。その村上さん、教会にすごくいい印象を持っているようです。何でも友達が教会に行くようになって、全く人が変わったようです。こんなんだったら、子どもを教会に連れて行くべきだったと言っていました。子どもに言ってもなかなか言うことを聞かないと。そりゃあ、28才の息子が簡単に言うこと聞くわけはないですよね。それより本人が先と言いたいところですが、そこは抑えて、ちょうどバイブルアワーの前の日だったので、誘ってみました。拒否はしなかったので期待していましたが、残念ながら来られませんでしたが、またいつか機会があるかも知れません。その友達のように、いい証しができればいいですね。


一つの事実を認めないと…


律法学者たちは、言います。「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と。
彼らは、イエス様によって悪霊が追い出されているという事実を認めざるを得ませんでした。しかし、イエス様のわざを神からのものとも認めません。なぜなら、神から来たものは神の律法を守るべきだと考えていたからです。しかし、彼らの言う律法を守るとは、言い伝えに基づく律法の解釈を守ると言うことです。イエス様は、それが違うと再三指摘されました。

『安息日』の話の時にも出てきましたね。しかし、律法学者人たちは、自分たちの律法解釈こそ正しいと考えています。それを守らないのは、神様からのものではない。でも、悪霊を追い出しているのは事実で、それは人間にできることではない。とまあ、こんな論理になってくるのではないかと思います。
一つの事実を認めないでそれと辻褄を合わせようとすると、もっと変なことになってしまいます。よくわりますよね、子どもが嘘をついて、それを隠そうとして言い訳をするともっとおかしなことになってしまうと言うことがドラマなんかでもよくあります。一つの罪を隠そうとして、もっと大きな罪を犯してしまうなんてことが。
まだまだ小さいうちに、過ちを認め、素直になることが大切だと思います。


内部分裂したら国は立ち行かない

イエス様は、律法学者たちの論理がおかしいことを指摘されます。一言で言えば、国も家も仲間割れしたら終わりです。と言うことですね。
国が内部分裂すると言うことはよくあります。日本で言えば、代表的なのは戦国時代でしょうか。約100年続きます。最も世界史的に見れば短い方で、混乱が長く続いた国もたくさんあります。被害を被るのは、一般民衆ですね。

家の分裂もよく聞きます。『離婚』もめずらしいことではなくなりました。そこまで行かなくても、家庭とは名ばかりというところもよくあるかも知れません。どちらにしても、分裂は悲劇しか生み出さないでしょう。
「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。」とイエス様は言われます。言い換えれば、サタンの王国は、内部分裂していないと言うことです。
悪霊とか、サタンとかが、内部分裂して自滅してくれたら、こんないいこともないでしょう。でも、現実は、そうでないということです。だからペテロは警告しています。





身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(Ⅰペテロの手紙5:8,9)



27節では、悪霊を追い出すためには、それよりも強い力が必要であると言っています。悪霊が追い出されているということは、それよりも強い力が働いているということであり、イエス様は、悪霊より強い力を持っていると言うことなのです。だから、私たちのすべきことは、この神様に頼ることです。人間の力だけでは敗北してしまいますから。


聖霊を汚す罪赦されない

この後、イエス様は、意外なことを言われます。28節と29節です。これが、よく問題になる聖霊を汚す罪です。どれほど神を冒瀆しても許されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に許されないというのです。
神を冒瀆しても許されるけれど、聖霊を冒瀆したら許されない?何が違うのとよく問題になります。ここだけを取り出して考えると難しくなってしまいますね。でも、30節にしっかり書いてあります。


このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコの福音書3:30)


問題なのは、この律法学者たちの態度なのです。もう一度繰り返します。イエス様が悪霊を追い出している事実は認めざるを得ないけれども、それが神からの者だと認めようとしない態度です。
聖霊は、私たちの心に働いて、真理に目を開かせる働きがあります。その聖霊の働きを拒絶したらどうでしょう。あろうことか、その聖霊を悪霊呼ばわりするとしたら。真理を悟らせてくださる聖霊を無視したら、どうやって悔い改め、救われることができるのでしょう。聖霊を汚す罪とは、認めざるを得ない事実を知らされても、なお頑固にこれを拒絶することではないでしょうか。

一つはっきりさせておく必要があります。これはクリスチャンには関係がないと言うことです。赦されない罪があるというとそれをしてしまわないか恐れる人がいます。でも、聖霊を汚す罪という特別な罪があるわけではないのです。そして、キリストを信じるなら、聖霊様は、その心にすんでくださいます。その聖霊を否定することはやろうとしてもできないのです。
聖書は、信じた者は決して滅びないとはっきり約束しています。ヨハネ10章です。


わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。(ヨハネの福音書10:28,29)



バカの壁


私たちは、聖霊を汚す罪を犯すことはできないので、赦されない罪を犯すことを恐れる必要はありません。しかし、律法学者のようにかたくなになることはあり得ます。許されないとか、滅びるということはありません。しかし、私たちの心がかたくなになって、受け取ることのできる大きな祝福を失ってしまうと言うことはあり得るのです。

バカの壁という本を知っていますか?今から約15年前に刊行され、ベストセラーになった本です。以下、インターネットでの説明です。

『バカの壁』(バカのかべ)は、東京大学名誉教授・養老孟司の著書。新潮新書編集部の口述筆記による著作である。2003年(平成15年)4月10日、新潮新書(新潮社)より刊行された。

本書の帯紙には「『話せば分かる』なんて大ウソ!」書店向けPOP広告には「バカの壁は誰にでもある」という著者の言葉が記された。
「人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能である。理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」というのが本書の要点である。

(私も買って読んだのですが、ちょっと期待外れだったかな。)最初の方は面白かったのですが、後半尻つぼみという感じでした。
でも、興味深い話が載っているので紹介したいと思います。少し長いですが、聞いてください。


バカの壁P13~p16 2行目まで


説明はいらないと思いますが、『わかっている』 と思い込んでしまうことは恐ろしいですね。人の話を聞くときも、聖書を読むときも心を開いていくことは大切です。
聖書は絶対的な真理です。しかし、その解釈まで正しいとは限りません。今私たちがしているものと違った見方解釈もあり得るのです。もしかしたら、そちらの方が正しいのかも知れない、そんな開かれた心が必要なのではないでしょうか。
最後に聖書をお読みしたいと思います。ヘブル3章7節と8節です。


ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように。(へブル人の手紙3:7~8)


今までにない視点、自分と違う考え方でも、まず聞いてみましょう。その上で、取り入れるか拒否するかすればいいのですから。神様は、全く違うことを教えようとしていることもあるのです。それこそ、聖霊に導きを求めながら、進んでいきたいと思います。

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