ホザナ会のメッセージ②

福音

神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。

預言者イザヤの書にこのように書かれている。

「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。

荒野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

ヨハネはラクダの毛の衣を着て、腰に革を締め、いなごと野蜜を食べていた。

ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力ある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履物のひもを解く資格もありません。私はあなた方に水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

(マルコの福音書1:1~8)

マルコの福音書

これから、しばらくマルコの福音書から考えたいと思います。

マルコによる福音書は、新約聖書の二番目の書です。4つある福音書の中で最も短いものです。学者たちによれば、他の福音書より先に書かれたのだろうと言われています。

第一に考えたいことは、「福音」ということばです。そもそも、この書は、「マルコによる福音書」といわれていますし、「ー福音のはじめー」ということばから始まっています。

新約聖書には、このマルコ以外に、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書があります。

この福音ということばについて、どう考えますか?日常生活の中で、あまり使わないのではないでしょうか。

広辞苑によりますと…

①よろこばしい知らせ。

②イエス=キリストの説いた神の国と救いの教え。ゴスペル。

…と書かれています。

二つ目の説明があえてあると言うことは、これがキリスト教用語の一つと考えられているのではないかと思うのです。

長いこと教会の集っているとよく聞くことばなので、違和感はないのですが、一般の方々にはなじみのないことばかも知れません。

もともとは、戦争に勝ったとか、子どもが生まれたとか言う知らせに用いられたエヴァンゲリオンというギリシア語だそうです。

これが新約聖書に多く用いられ、これに「福音」という訳語が当てられたようです。(新改訳聖書で119回書かれています)

なかなかいいニュースというのは、少ないものですね。ただ最近(2018年)終わった冬のオリンピックは、連日いいニュースがありました。

予想外といっては選手たちに失礼かも知れませんが、たくさんのメダルを取ってくれました。

でも、こういうときでも、今日はいい福音がありました。なんて言わないですね。

それだけ「福音」がキリスト教用語になっていると言うことなのでしょう。

逆に、教会に長くいると、「福音」はいろいろなところに出てきます。「私たちは、福音的な教会です。」とか、「それは福音的ではない」とか。

福音的とはよい意味で使うことが多いので、自分たちのことを「福音的でない」という人はいないでしょうね。

レストランなどで、「このお店の料理がおいしくない」という所はないように。(あえてそれに触れず、価格で勝負するということはあるかも知れませんが…)

福音とは、よい知らせのことですが、マルコがそれによって何を伝えたかったのか、添えは本文を読みながら考えていきたいと思います。

神の子イエス・キリストの福音のはじめ

マルコの福音書の冒頭のことばが、

「神の子イエスキリストの福音のはじめ」です。この福音、すなわちよい知らせとは、神の子であるイエス・キリストについてのことですとはっきりと告げています。

これは、聖書全体、特に新約聖書を貫くことなのです。パウロもローマ人への手紙の中で、

──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。」(ローマの福音書123

といっています。

福音とは、「イエス・キリストについての素晴らしい知らせ」と言うことになります。

だから、4つの福音書は、イエス・キリストについて書かれた書物なのです。

バプテスマのヨハネ

マルコは、この福音書のタイトルというかテーマを告げた後、何を語っているのでしょうか?

彼は、イエス・キリストの誕生、すなわちクリスマスのことも、少年時代のことも書いていません。代わりに、一人の人物、バプテスマのヨハネについて告げています。

ルカによれば、このパブテスマのヨハネと、イエス・キリストは、親戚関係にあったようですが、そのことにも一切触れていません。

クリスマスについては、4つの福音書のうち、マタイとルカにしか書かれていませんが、バプテスマのヨハネについては、4つの福音書すべてに書かれています。それだけ聖書が重要視していることがわかりますね。

しかし、人間的にはその重要性がよくわかりません。ヨハネは、活動をはめてすぐに捕らえられていまい、そのまま処刑されてしまいます。人間的にはなんと報われない人生でしょうか。

ーーヨハネの役割は何だったのでしょうか?

聖書が告げているのは、

『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』というものでした。

なんであっても準備とか下ごしらえは大変ですね。本番はあっという間に終わってしまうものでも、準備にはその何倍何十倍もの時間と労力がかかるのです。それでいてあまり注目されず、評価もされていないような気がします。

建物の基礎工事も大切ですが、目に見えません。だから時に手抜き工事なんてことがあるのです。しかし、地震でもあったら大変なことになりますね。

神様はそのことをよくわかってらっしゃる。だから、4つの福音書すべてにバプテスマのヨハネの働きが記されているのでしょう。

ヨハネの働きとは、まさに、縁の下の力持ち、裏方の働きといえるのでしょう。

悔い改めのバプテスマ

そのヨハネの準備とは、具体的には何のことでしょう。マルコは、4節で、「罪の赦しに導くバプテスマを宣べ伝えた」(マルコの福音書1:4)と書いています。

「悔い改め?」と聞くといやになる人がいるかも知れません。

先ほど、福音とはよい知らせだといっていたのに、そのどこがいい知らせなのかと。

教会に来ると、罪の話ばかりされる。いい話が聞けるかと思ってきたら、あなたは罪人だ罪人だと言われていやになってしまった。そういう経験を聞いたこともあります。このどこが、福音、よい知らせなのなのでしょうか。

しかし、ただいいことだけを話しても、問題は解決しません。

しかし、まず原因がわからなければそれを治すことが出来ません。病気だとわからなければ治療しようとももしないでしょう。

癌の怖さは、なかなか症状にでないことです。糖尿病も同じですね。数字だけなので、なかなか食事制限が難しいと聞きます。

しかし、症状が出るほど重くなると、もう大変なようです。

昔は、癌の告知が問題となっていました。

「癌=死の宣告」だったからです。

その宣告は、絶望しか与えません。

それは生きる希望を失い、かえって寿命を短くしてしまう。

ずいぶん前の話ですが、同僚がこんな話をしてくれました。そのお父さんが癌になったとき、その息子たちがその事実を告知しないことに決めたそうです。本人にも、その奥さんであるお母さんにも、それから姉妹たちにも。「癌じゃなかったからよかったね」「草(?)だよ。」と話をしていたそうです。

その話を聞いた当時、今から20年以上前だったと思いますが、まだそのお父さんは健在で、癌になってからもう何年も経っています。

ー今は癌だからといってそれを本人に知らせるのをためらうことはあまりないように思います。それだけ癌が治らない病気ではなくなってきているのでしょう。

悔い改める必要がある

それを知らせるためにバプテスマのヨハネは現れたのです。

「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ」(マタイの福音書3:3)

ーとはそういう意味なのだと思います。

私たちにも、告げられています。

「悔い改めなさい」と。

これは15節にもあります。

あなたには、治療しなければならない病がある。放置すれば大変なことになります。

しかし、安心してください。

その病には治療方法があります。

神の治療を受けること、これが救いを受けるという意味ですが、そうすれば必ず治るのだと。

これが福音、よい知らせなのです。

聖霊のバプテスマ

しかし、「悔い改め」だけでは不十分です。

病気であると宣告されても治療しなければ解決しないのと同じように。

私たちは、何度も何度も悔い改め、やり直してきました。でもやっぱり同じように失敗してしまい、何も変わらなかった。そう感じることも多いのではないでしょうか。

今年ももう、3月(2018年の)になってしまいましたね。新年に、今年の計画を立てましたか?

2ヶ月経ってその結果はどうでしょう。計画通りという人もいるかも知れませんが、そういう人はごく少数のように思います。

ヨハネは、8節で証ししています。

「私より力ある方が来られる。ヨハネは、水でバプテスマを授けたが、この方は、聖霊でバプテスマを授ける」(マタイの福音書3:8)と。

「聖霊のバプテスマ」これ一つで大きなテーマになります。「福音」と同じように、この福音書全体で明らかにしていくべきテーマかも知れません。しかし、それだと中途半端ですので、先取りして考えてみたいと思います。

水のバプテスマ(洗礼)、ヨハネの授けていたバプテスマは、悔い改めのバプテスマです。

悔い改めとは、方向転換です。神の方に向かって方向転換することです。

しかし、悔い改めても悔い改めても失敗し続けるのが人間です。しかし、神の子イエス・キリストが授けてくださる聖霊のバプテスマは、これと違うのです。

これについては、イエス様の生まれる約600年ぐらい前にエレミヤという人が預言しています。

ーエレミヤ書31章を開いてください。

「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」(エレミヤ書31:3134)

聖書はこのように約束しています。

それはイエス・キリストを信じるときに実現するのです。

バプテスマのもともとの意味は、結びつけるということにあります。

聖霊のバプテスマとは、聖霊の力によって私たちが神と結びつけられると言うことです。

これは何度も聞いていることでしょう。

イエスを信じるときに、救われる。

神の子どもとされる。

私たちの運命は、このイエスとどういう関係を持つかにかかっているのだと。

だからマルコは、この福音書を通してイエスを紹介しているのです。そして語りかけてきます。

あなたはイエスを誰だと思うかと。

すべてがわかる時を待つ必要はありません。

そんな人は誰もいません。

この方と歩もう、そう決めたときが、救いの時なのです。イエス様とともに歩んでいくことをお勧めします。

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