2020.3.8みことばの時間「罪を赦す権威」

マタイ9章1-8 節   (ルカ5 17-26、マルコ2 1-12)

先週のおさらい

先週は マタイの福音書9章の具体的な学びに入る前に、この章以降にたびたび登場してくるパリサイ人や律法学者たちについてのお話をしました。

彼らはどんな考え方を持っていたのか、なぜイエス様とことごとく対立していくことになるのか について考えてみました。

端的に言うならば、彼らが 旧来の伝統的な律法解釈—–そこには 時代の経過とともにさまざまの人間的な要素が付加され 重要視されるようになってきていましたが—–の延長線上で、イエスキリストの教えを受け止めようとしたからです。

いわば 『新しい葡萄酒を古い革袋に入れようとした』ためであった、と言っていいかと思います。

今週のお話

さて 今週はマタイの福音書9章の最初に出てくるお話について 考えてみます。

聖書の箇所は マタイの福音書9章1-8 節です。

このお話には他の福音書に並行箇所(マルコの福音書2章1-12節・ルカの福音書5章17-26 節)がありまして、そちらの方が 情景描写が豊かですので是非参照してみて下さい。

イエス様は ガリラヤ湖畔のカペナウムという町のある家で いつもの様に民衆に教えをされていました。

すでにイエス様の評判は付近の町々に知れわたっていて 教えを聞き 病気を癒してもらおうと集まってきた人たちは、この家のなかに入りきれずに戸口の周りにも人が溢れているほどでした。

そこに中風を患っている男が 友人たち4人に担ぎ込まれて来ました。
たぶん戸板のようなものに載せられていたのでしょう。
彼らはこの家のなかに病人を運び入れることができず、仕方なく はしごで屋根に登り瓦をはがして孔をあけ 病人をイエス様の目の前につり下ろしました。

ここで イエス様は病人を前にして語った言葉は意外なことに『子よ しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』というものでした。
4人の男たちが大変な思いをして病人をつり下ろしたのは、中風という 一刻も猶予のならない冷酷な現実に対して直接的・可視的な解決となる声をかけて欲しかったからに他なりません。
ところがイエス様は『病気よ治れ 中風よ去れ』とは言わないで『あなたの罪は赦された』と仰ったのです。

私たちはここで 当時の人たちが 病気に関してどのように捉えていたのかについて理解しておく必要があると思います。
一般的に人が何らかの病気にかかっている場合その原因は【その人の内に罪が有るからだ】【心の中の罪が外面的な病気という形をとって現れているのだ】と考えられていました。
だから 病気を治すには 先ず罪の問題が解決されていなければならない ということになるのですね。
このような訳で イエス様は中風の人を前にして『あなたの罪は赦された』と仰ったのです。

ところで【罪を赦す】ということは、人間にはできないことです。
なぜなら聖書によれば、人は皆 罪人ですから、罪人が 他人の罪を肩代わりしたり赦したりすることはできません。
正しいお方 = 神 だけが人の【罪を赦す】権威と権限を持っているのです。

カペナウムの家は、イエス様のお話を聞き 病気を癒してもらいたいと思う近隣の多くの人たちでごったがえしていましたが、そのなかに遠方エルサレムからやってきた パリサイ人・律法学者 と呼ばれる人々がいました。
最近 ガリラヤ地方で話題になっているイエスという男の正体をこの目で確かめるためです。
彼らは イエス様が中風の人に対して発した『あなたの罪は赦された』という言葉に敏感に反応しました。

人の【罪を赦す】ことができるのは神だけである、なのに ナザレの大工の家に生まれたイエスという男は大胆にも自分を神と同じ立場に置き 神にしか許されない権能を振りかざしている、これは神に対する聞き捨てならない侮辱だ、という訳ですね。

もしイエスが ただの“人間”であるならば、パリサイ人達のつぶやきは 全く正しいことになります。
しかしもしイエスが“神”であるとするならば、パリサイ人達は、“神を神とも認めないで ただの人間”と見ているのですから 彼らの方こそ神をひどく冒涜していることになります。

こんなパリサイ人達の心の内を見抜いたイエス様は、彼らのために そしてその場に居合わせた一同のためにこう質問されます。
『あなたの罪は赦された』と言うのと『起きて歩け』と言うのと どちらが易しいと思いますか?と。

皆さんはどう思われますか。
『起きて歩け』と言うのは、中風の人の病が実際に治りまた元の健康な状態に戻せる力がなければ 言えるものではありません。
その人が一向に元気にならないなら たちまち偽りが露見してしまいますね。

一方で『あなたの罪は赦された』と言うのはどうでしょうか?
心の中の罪が赦されたからといって、外面的に何かが変わるわけではありません。
罪が赦されたかどうかは、他の人には誰にもわからないのです。
だから 言うだけなら誰だって言うことができます。
私たち人間の側にしてみれば こちらの方が全然たやすいですね。

そしてイエス様は《病気を癒す》ことを通してご自身が《罪を赦す》権威と力を持っていることを知ることができるように、と中風の病人にこう命じました。

『起きなさい。寝床を担いで家に帰りなさい。』
すると彼は、さっさと床をたたんで小脇にかかえて神をあがめながら自分の家に帰って行ったではありませんか。
この様子をつぶさに目撃していた群衆も、神の力を目の当たりにし、恐れに満たされて『私たちは今日 驚くべき事を見た。』と言い 神をあがめた、と書かれてあります。

一方 パリサイ人達も 同じように感じていたのでしょうか。
いいえそうではありませんでした。
群衆と一緒にこの光景に立ち会っていながら 彼らはイエスという男は神を侮辱するひどい男・民衆を惑わすお騒がせもの とあらわな敵対心が湧き上がってきたのです。
ここには直接書かれてはいませんが、聖書の後のほうを読むとそのことがわかります。
群衆とはまったく正反対の捉え方をしていたのです。

このお話が私たちに問いかけている大切なポイントを三つ挙げてみましょう。

第一の論点【果たして イエスという男は 神なのか 人なのか】

もし神ではなく人間にしか過ぎない、とするならば 自分の周囲にいる大勢の内のひとりとして扱えばいい。気が合って意気投合すれば交友を深めればいいし 鼻持ちならぬ奴だ!と思えば遠ざければいい。無視しても非難してもいい。
けれど もしイエスが神だとするならば、【彼は 私にとっていったいどんな方なのか】【その神に対して私はどう応答すべきなのか】という問いが必然的に続いてくることになります。

第二の論点【神は、私たち人間が神ご自身との関係を快復する事を切望されている】

戸板に載せられて担ぎ込まれた中風の人は、病に侵された自分自身をこの方に委ねました。
そして重い病気を治してもらうことができました。
しかし それだけに留まらず、苦難の根底に横たわっているもの、“罪”の問題 つまり“神との関係が絶たれてしまっている状態”について解決をいただくことができました。
神は この男の病を癒すことを通してご自身が人間の罪を赦すことができる権威を持っていることを示しました。
この男は 神から『あなたの罪は赦された』とのみ声を聴き、神との関係を正常な状態に回復させられ、人の人生に暗い陰を落としている根源的な問題に対して 全人格的な救いを得たのです。
群衆もまた、この様子を通して大きな恐れに満たされて『私たちは今日 驚くべき事を見た。』と言い 神をあがめました。

第三の論点【私たち人間は、イエスという方を前にして必然的に二つに分けられる】

このお話に則して考えてみましょう。中風の男、彼を担いできた友人たち、周りを取り囲んでいた群衆、そしてパリサイ人たち がいましたね。
彼らはそれぞれ同時に、イエスのことばと、わざを目撃していました。けれども、その光景を通して、どんなことを判断しどんな結果に至ったかについては、対称的に2つのグループに分かれました。
このように私たちは、神を前にして 自分でこの方に対するそれぞれの判断を下し そして相応の結果を選びとることになるのです。

まとめ

聖書は最初から最後まで一貫して、

  1. 私たち人間が神から迷い出てしまって無益なものとなっていること。 
  2. 罪の赦しという 全人格的な快復が必要である事。 
  3. 神はご自身に身を委ねる者の罪を赦す権威をお持ちである事。 
  4. そしてその権威は 私たちの罪を負ってイエスキリストが十字架に架かられたことによって裏付けられていること

を主張しています。

続けて聖書に親しみ 神と出会い 全人格的な救いを得られますよう願っています。
次回は次の箇所(マタイ9章9-13 節)から《罪人を招くために来られたイエス》について考えてみたいと思います。

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