ホザナ会12回 種まきのたとえ


有名な種まきのたとえ

今日は、有名な種まきのたとえです。聖書に触れている時間が長いと、この話当たり前になってしまうのですが、でも、初めて聞くと違和感をもたれる方もいるのではないでしょうか。特に農作業の経験ないしは知識のある方は。こんな種まきなんてしない。道や岩地、いばらのあるところに種なんて蒔かない、というでしょう。日本の農業ではあり得ないことですね。でも中東地域ではごく当たり前のことだったようです。 聖書に出てくるたとえは、当時の人々にとってはよく見かけるものが使われており、理解しやすかったようです。しかし、2000年の時と遠く離れた場所にいる私たちにとっては今ひとつピンとこないものもあるようです。当時の様子とかを知ることで、理解の助けとなると思います。 このパレスチナの地では、ほんの4,50年前までは、このような種まきをしていたようです。日本人から見たら、なんともったいない蒔き方と思いますが、パレスチナではふつうだったようですね。

4つの種でなく土地

この例え話は、弟子たちには理解できず、後でイエス様に尋ねます。そこで、弟子たちにだけ説明します。それが、14節からの説明です。そこではっきり書かれているとおり、種とは御言葉のことで、土地は、それを聞いた人々の態度ですね。ここで、4つの種について書かれていますが、大切なことは、種に違いがあるのではなく、蒔かれた土地が問題だと言うことです。みことばを私たちがどう聞くかと言うことです。4種類の聞き方があると言うことです。具体的に一つ一つ見てみたいと思います。

道ばた

最初に出てくるのは、道ばたに落ちた種です。すぐ取りが来て食べてしまったというのです。全く関心を持たない、聞く耳を持たないと言った態度ですね。 「人間は、自分の見たいと思うものしか見ない。」とは、ローマの英雄カエサルの言葉ですが、人間とは、本当に自分の関心のあることにしか、目が行かないものです。旅行に行っても、どんな花が咲いていたかと聞かれても、多分目に入っていないですね。 みなさんは、福音に心開いているので、直接当てはまりませんね。むしろ伝道の時に、適用できるでしょう。どんなに、熱心に伝えようとしても、全く心を開こうとしない人がいます。聞く耳を持たないと言うところですね。こういう人に、福音をしつこく語っても反発されるだけで、むしろ逆効果です。私たちは、忍耐を持って、祈りながら機会を待つほかはないと思います。

岩地

残りの三つは、聞くには聞くのです。だから芽を出します。でも、二つは実を結ぶことができませんでした。どこに、問題があったのでしょう。 二番目の種は、岩地に落ちました。すぐ芽を出すのですが、日が照ると枯れてしまったというのです。弟子たちには、自分自身に根がなく、困難や迫害が起こるとつまずいてしまうと説明しました。 これは、一言で言えば、表面しか見ない、根のない信仰と言うべきでしょうか。どうしても目に見えるものだけにとらわれてしまう、これは誰にでもある傾向でしょう。 物質的なもの、目に見えるものだけにとらわれると躓きます。

日本には、御利益宗教という言葉があります。信仰することでどんな御利益があるかということです。交通安全、家内安全、商売繁盛、合格祈願などがその代表でしょうか。具体的なことでプラスになるかマイナスになるか、それだけにとらわれると大変です。いいときもあれば、悪いときもあります。教会に来ていて、熱心に活動していても、悪いことが続くと不安になったりします。こんなことばかり続くなら、やめてしまおう、と勝手に、キリスト教を卒業してしまう人もいるようです。 もう一つは、人に頼る信仰です。人から入る人が多いと思います。教会に来るようになったのも、ほとんどは人に誘われてです。誘われて教会に行ってみると、みんないい人ばかり、いいところに来たなと感動します。でも、いつまでも人にしか目が行かないと、その人に裏切られることがあります。人に裏切られるより、人に対して過剰な期待をしているとその期待が裏切られると言うことの方が多いかも知れません。自分を導いてくれた、指導してくれた牧師や先輩がいなくなったら教会にも行かなくなってしまったという話もよく聞きます。 私たちは、信仰の根をしっかり張って、人にでなく神に、キリストに直接結びついている必要があります。人は、結局不完全です。でも、神は、完全であり、この方に信頼するものは、決して失望させられることがないのです。

茨の中

この世界には、魅力的なものが一杯あります。そして、その多くがそれ自体、悪いものではありません。でも、知らないうちに大切な養分がそちらに持って行かれます。

一番わかりやすいのは、時間ですね。私たちは、何のために時間を使っていますか。どれくらい時間をかけていますか。あなたが一番時間をかけているものが、多分、一番大事にしているものでしょう。

神様のことをどれくらい考えていますか、そのためにどれくらい時間をかけていますか。時間をかけなければ、成長はあり得ないのです。 暖かくなってきて、雑草が増えましたね。ちょっとほっておくとどんどん生い茂って,大切な養分をみんな持っていきます。 心の雑草を取り除きましょう。他の人には何の害にもならないものが、大きな障害となる場合があります。

よい地

良い地に落ちた種は、「育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」と書かれています。 5000年前のオリエントでは、一粒の麦から80倍の収穫があったという記録があるようです。これは驚くべき数字です。1000年前のヨーロッパでは、5~6倍とれたら大豊作だったそうですから。ちなみに日本ではどうでしょうか。小麦と米だと条件が違ってしまいますが、一粒の米から10株の苗となり、それぞれが60から100くらいの収穫があるようです。つまり、600~1000倍ということになりますね。まあ、それだけ米が狭い土地でたくさんできる作物であると言うことですが。その分、手間もたくさんかけています。種を蒔いて、後は収穫するだけなんてことはあり得ないですからね。

少し脱線してしまいましたが、良い地に蒔かれた種は、多くのみを結ぶと言うことです。そして、ここで覚えておきたいことは、何か努力したから実を結んだのではないのです。種に命があり、成長する力があるのです。そして聖書は言っています。成長させてくださるのは神です、と。

Ⅰコリント3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。この神に信頼し、この神につながっているなら必ず実を結ぶことができるのです。

命の尊さ

今日の記事を読んで教えられるのは、いのちの大切さではないかと思います。種には、命があります。この命は成長するのです。同じように見えても、すごくきれいなものであっても石は成長しません。

しかし、小さくても、みすぼらしく見えても、生きている種は生長する力を持っています。今日読んだ箇所の次には、そのすごさがたとえで語られています。26節から、32節です。 知らないうちに成長していく姿と、最も小さいものが非常に大きくなると言うたとえですね。 私たちは、このいのちを与えられているのです。その価値を小さく見てはいけないと思います。 イザヤ55章を読んで終わりにしたいと思います。

イザヤ書55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──

55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

55:10 雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。

55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

このページの先頭へ