2018.4月 イースターメッセージ

(メッセンジャー:石倉満)

 

イースターは何の日?

みなさんこんにちは!

イースターおめでとうございます!

 

最近はディズニーのイベントや、イースターエッグなどのグッズの影響で、イースターというものが前より認知されてきているのを感じます。

しかし、イースターの本当の意味については、あまり理解されていないのではないでしょうか。

卵を集めたりなぜかウサギが出てくるだけの日ではありません。本来は、キリストの復活を祝う日です。

 

ですが、「キリストの復活」と聞いて、素直に受け止められない人も多いのではないでしょうか。

聖書の内容が、「人に親切にしましょう。悪いことをせずに誠実に生きましょう」というだけのものなら、抵抗はほとんどないはずです。

ただの倫理道徳の教科書ならば、多くの人に好意的に受け入れられます。

 

でもそれは聖書のメインメッセージではありません。

聖書が与えるのは、困難な時にそれを乗り越える力であり、生きるのが嫌になったときに、もう一度頑張ろうという原動力であり、どうしても赦せない人を赦せるようになる奇跡的な変化です。

そしてそれらの土台にあるのは、復活の事実です。

 

今日は、「今も生きている神 イエス・キリスト」というテーマで、一緒に聖書から考えていきましょう。

 

復活は聖書の中心テーマ

聖書を開きましょう。

新約聖書、コリント人への手紙第一15章2節。

 

私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

TVショッピングをごらんになったことがあると思います。

その際必ず使った人のインタビューがあります。

トレーニング器具の宣伝であれば、見事に割れた腹筋が披露され、。あたかも、「これを使えばだれでもこのモデルさんのようになれる」という印象を与えます。

これいいかもいいな!と思わせるんですが、よくよく見ると、隅っこに小さく「あくまで個人の感想であり、効果を保証するものではありません」と書いてあるんです。

ちょっとずるいなと思います。でも、賢いなとも思います。

 

ではみなさんどうでしょう。

復活が、万人に受け入れられやすいものでないのならば、隅っこに小さく書いておくのはどうだでしょうか。

「あなたには価値がある」とか「正直に生きましょう」という抵抗なく聞けるメッセージだけ強調しておいて、はじに小さく、「キリストは復活したという考え方もあります。イースターはそれを祝うようです。」と記しておく。

 

しかしそれは絶対に出来ません。

なぜなら聖書はこう言っているからです。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

 

十字架と復活抜きでは、キリスト教は語れません。

信じたい人が信じればよいというオプションではありません。

これは聖書の中心メッセージです。

 

実は、奇跡を否定する読み方が流行った時代もありました。特に19世紀から20世紀にかけてでしょうか。

「聖書に出てくるそういう超自然的なことは、もう神話の領域だ。昔の人にはよかったかもしれないけど、知的なわれわれ現代人には、合わない。そんな非科学的なことは到底受けいれられない。時代遅れだ。」と。

 

「だから復活とかそういう奇跡の話は読み飛ばして、聖く正しくいきることとか、慈善活動とか。社会奉仕活動とか、そういう部分だけ拾い読みするようにしよう」と。

 

その結果どうなったと思いますか?

そういう読み方を始めた人達の集団は次第に元気がなくなっていきました。活力がなくなりました。

キリスト教がそれまで持っていた、生きる指針や、困難なときの支え、人を本当に赦そうとする力などを失っていったのです。

それは、聖書自身が最も大切なこととしているメッセージを読み飛ばしてしまっていたからです。

 

聖書は、最も大切なのは、キリストの十字架と復活であり、このお方が今も生きている神であることだ、と宣言します。

2節にはこうも書いてあります。このことを覚えておけば、あなたがたは救われる。逆に、ここをはずしてしまうと、他のことをどんなに気をつけていても、無駄であると。

 

では、聖書はキリストについてなんと言っているのか、詳しく見てみましょう。

 

聖書の中心テーマ前半 ― イエスの死と埋葬

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 

最初のポイントは、「キリストは私たちの罪のために死なれた」ということです。

聖書に書いてあるとおりに、とはどういうことでしょうか。

 

聖書の最初には、「はじめに神が天と地を創造された」と書かれています。

「神」というと日本人はいろんな物をイメージします。八百万の神だったり、人間離れしたスポーツや芸術の才能を持った人のことだったり。

でも聖書が示すのは、唯一の神です。この宇宙とその中にあるすべてのものを造ったお方で、私たち人間も、この神によって造られました。

 

しかし、人はそれを忘れて、否定して生きています。「神なんかいない、いても自分とは関係ない」と。

聖書はこれを「罪」と言います。

 

警察に捕まることだけが罪ではありません。

私たちは犯罪者ではなかったとしても、悪いことを考えます。

逮捕されなかったとしても、傷つけ合うこともあります。

忙しく生きていてもどこか満たされず、なにかむなしさを感じます。

 

これはすべて、造り主である神様のもとを離れてしまったからです。

その行き着く先はです。

私たちはみな死ぬのは、私たちが罪を犯したからだと、聖書は語ります。

そして、死後にさばきが待っていることも、聖書ははっきり告げます。

 

しかし、そんな私たちを救い出ために、神が人となってこの地上に来てくださいました。

この方こそイエス・キリストであり、これを祝って記念するのがクリスマスです。

 

クリスマスに地上に来てくださったイエス・キリストは何をされたでしょうか。

教科書には、「自己犠牲の愛を説き、慈善活動に励んだ偉大な宗教家である」と、書いてあります。

でも、聖書は、この方は人となって地上になって来てくださった神であると伝えます。

それは、本来私たちが受けるべき罰を、罪の全くない神が身代わりに受けてくださるため。これが十字架です。

さきほども賛美歌の中で歌いました。「十字架の悩みは我が罪のためなり」と。

 

「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」これが最も大切なことの1つです。

このことをしっかり覚えているなら、今の生きていても何かむなしく死んだような生活、また死後のさばきから救われる聖書は告げるのです。

 

続いて、4節。

また、葬られたこと。

これは、確かに死んだということです。

日本では火で燃やす火葬がほとんどですが、当時のイスラエルではそのまま墓に納める土葬が一般的でした。岩を横からくりぬいて、洞窟状にします。

中に包帯を巻いた死体を安置して、入り口を大きな円盤状の石で閉じます。

直径1Mくらいだったようです。隙間なくぴったりと閉まるようにつくられていました。

 

これが金曜日の出来事でした。

キリストはいのちを落として、確実に葬られた。

これが大切な2つ目のポイントです。

 

 

そして3つめが、4節後半。

また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

ケファというのは、弟子の名前です。

 

そしてここからが今日の本題です。

復活の記事を、詳しく見てみましょう。ルカの福音書24章をお開きください。

 

聖書の中心テーマ後半 ― 復活

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。

見ると、石が墓からわきに転がされていた。

そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。

そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。

彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。

人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」

彼女たちはイエスのことばを思い出した。

そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。

それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、

この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。

 

1節。「週の初めの日の明け方早く」。日曜の朝のことです。

 

と、ここで鋭い人なら気づいたかもしれません。

「葬られたのが金曜で、復活したのが日曜な、ら3日目ではなく2日目ではないか?」

 

これは、当時のカウントの仕方によるもので、数えで三日目です。

今でも社会人1年目と言います。0年目とは言いませんね。

金曜から日曜までも、金、土、日と数えて3日目でした。

「これが週の初めの日の明け方早く」のことです。

 

1節後半。「彼女たち」とは、イエスに従っていた弟子達のことです。

実は、弟子達はイエスご自身の口から、復活の予告を聞いていました。

「私は十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえります」と。

ではどうでしょう。彼女たちは復活を期待してきたか?

 

そうではありません。

「準備しておいた香料を持って墓に来た」と書かれています。

当時の埋葬の習慣では、死後の腐敗臭を防ぐために香料を塗ることがありました。

 

みんな、イエスが葬られて墓に納められたのを見ていました。当然死んでいるものとして、きちんと埋葬をしようと思ってやって来たのです。

死後丁重に扱おうと集まるほどイエスを慕っていた彼女たちですら、復活は信じていませんでした。

 

 

2節。墓について、見ると、墓の入り口を塞いであった、石が墓からわきに転がされていた。

なぜか石が転がしてありました。

不思議がって中に入ると、「イエスのからだは見あたらなかった。」

そして「途方に暮れた」のです。

 

人は想定外のことが起きて、計画が頓挫すると、途方に暮れます。

がっかりして、どうしていいかわからなくなります。

十字架で処刑されたというだけでショックなのに、死体まで消えてしまった。誰かが盗んでしまったのだろうか。彼女たちは落ち込みました。

 

 

すると、4節後半。

「まばゆいばかりの衣を着た人が2人、近くに来た。」

 

これは天使です。今読んでいる聖書(新改訳2017)では「御使い」と訳されます。

聖書の他の箇所を読むと、入り口の石を動かしたのも御使いであることがわかります。

天使と聞くと、かわいらしいイメージを思い浮かべるかもしれません。

ちょうどレストランのサイゼリアの壁に飾ってある絵画のような。

 

でも実は、聖書に実際に登場する天使は「かわいらしい」とはかけ離れています。

むしろ力ある存在として登場し、神に背く人々にさばきを下す時に現れたりします。剣を持っていることもあります。

ですから、5節。御使いを見た「彼女たちは恐ろしくなって地面に顔を伏せた。」

 

おびえている彼女たちに、御使い達はなんと言ったでしょうか。

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」

 

キリストは復活すると言っていたでしょう。その通り、よみがえりました。

生きている方を死人の中にいくら探しても決して見つかりません。もう死体は存在しないからです。

 

それを聞いて8節、彼女たちはイエスのことばを思い出した。

「そういえば、イエス様はそんなことを予告しておられた!」

 

9節。

「そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。」

 

墓から戻った彼女たちは、すぐに他の弟子達にもこのことを伝えます。

使徒達とは、弟子達の中の特に中心的な人物です。

 

しかし今読みましたとおり、中心的な人物であった彼らですら、最初は復活を受け入れなかったのです。

「たわごとのように思えた。」

そんな馬鹿な話があるか!という反応です。

 

復活は昔の神話に過ぎない言う人もいます。そういう考え方が流行った時期もありました。

現代の日本人には、科学的に証明できない奇跡なんてものは受け入れがたいかもしれません。

 

確かに医学は進歩し、科学は発達しました。当時は今のように、顕微鏡を使って病原体を特定したり、最新技術によって特効薬を開発することはできなかったかもしれません。

でも考えてみてください。1世紀の人々にとっても、「人は一度死んだら復活しない」というのは常識でした。

 

しかも、この「ルカの福音書」を書いたルカは医者です。

十字架というむごい処刑方法で殺され、墓に納められた人が3日目に生き返るなんて、普通はありえないことを十分知っていました。

 

ではなぜこんな記事を書き残したのでしょうか。

それは、事実だからです。

常識では考えられないことではあるけれど、実際に起きたことで、後の時代の人々にも残すべき大切な出来事だからです。

「キリストは、聖書の示すとおりに、三日目によみがえった!」

 

そしてこの後、弟子達はキリストに直接会うことができました。

少し後の、36節。

これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

 

弟子達は復活のキリストに会ったから、そのことを証言し、宣べ伝え始めました。

ルカの福音書の続編である使徒の働きでは、弟子達がイエスの復活を宣べ伝えたために迫害された記録が残されています。

単に馬鹿にされただけではありません。「イエスが復活した神だと言い広められるのはマズい」と考えた時の権力者達から、命を狙われます。

 

逮捕され、拷問され、「もし、イエスが復活したという発言を取り消せば助けてやる」と言われても、彼らは「いや、イエスは確かによみがえって、今も生きている神です」と証言し続けました。

12人いた使徒のうち、ヨハネは島流しに遭い、他の11人はみな拷問のすえ殺されました。

 

最初は、「復活なんてたわごとだ」と信じなかった使徒達です。

彼らがいのちがけで復活を証言する者に変わったのはなぜでしょうか。イエスが本当に復活したからです。

 

復活を告白し続ける教会

みなさん、教会って普段何をしているイメージをお持ちですか?

私はこのすぐ近くの中学校に通っていました。

中学の同級生に、「あそこの教会って何やってるの?」と聞かれたことがあります。

そのときは「さぁ」とごまかしました。

 

高校生なった時は逆に私から聞きました。

「教会って何やってるイメージがある?」

その友達は、「なんか、みんなで丸く座ってお話を聞いてる感じ」と答えてくれました。

 

あながち間違ってはいません。

でも私たちが毎週しているのは、キリストの十字架と復活を記念しておぼえることです。

年に1回のイースターだけではありません。

 

キリストは確かに人としてこの地上に来られ、2000年前の十字架で私たちの罪のために死に、3日後によみがえり、今も生きている。

私たちは毎週体験を分かち合い、シェアします。

今も生きているから、先週はこんな風に助けてくれた。

想定外のことが起きて途方に暮れているときに、道を示してくれた。

私が間違ったことをしてしまった時は、こんな風に厳しく戒めてくれた。

 

聖書の言葉によって、祈りの中で、また他のあらゆることを通して。

神が今生きていることを体験するのがクリスチャンです。

死を打ち破った方についていけば、死後の世界でも何も怖いことはないとの約束を受けています。

 

そして先週1週間ともに生きてくださった神が、今週も一緒にいてくださることを信じ、期待する。

教会が毎週していることはこれです。今朝も行いました。

世界中の教会で、2000年間続けられてきています。

 

「イエス・キリストは今も生きている神である。」と。

 

今の時代も、私たちと共に生きてくださるキリスト

今はどんな時代でしょうか。

カトリックの司祭で、ハーバード大学の元教授であるヘンリ・ナウウェンは、その著書の中で、今の世代独特の特徴を「核世代」と呼んで表現しています。

核とは、核兵器の核です。

 

ちょうど、核ミサイルが発射されたらそれまで築き上げてきた物が一瞬で消え去ってしまうように、今の時代は「長く続く安定したもの」を期待しづらいと言います。

仕事だって、昔は終身雇用で1つの会社に入れば定年まで安心でしたが、今はそうはいきません。

家族だっていつ崩壊してもおかしくない時代です。

いろんな情報や価値観があふれていて、どれを信用していいのかわからなくなります。

こんな時代に、生きる意味を見いだすのは難しいです。

 

むなしさを一時的に紛らわしてくれるものはたくさんあります。

たとえば、スマホ1つで、ゲーム、マンガ、SNSと、いくらでも刺激的なものに触れることは出来ます。

でもそれらが根本的な解決にならないことにはどこか気づいています。

「人生このままでいいのだろうか。」「死んだらどうなるのだろうか。」

心の不安を完全に埋めることはできません。

 

私も「うつ」の経験がありますし、ナウウェンのいわんとしてることはよくわかります。

生きていく意味を見いだしづらい。生きているのが本当にイヤになることが今でもたまにあります。

 

そんなとき、哲学や人生論の本を読むことがあります。どれもとても鋭く深い洞察で、非常にためになります。

でも、生きる気力を失ったときの原動力にはなりません。

思いがけないこと、大変な苦難にあって途方に暮れたとき、立ち直る力を得ることはできません。

 

「聖く正しく生きよ」「世の中に貢献できる人間であれ」と言われても、「……そもそも生きたいと思えないんだないよ」と。

 

では、生きようと思わせるものは何でしょうか。

なぜ私が今日まで生き延びて、今ここに立っているのでしょうか。

 

それは、キリストが生きているからです。

目には見えないけれど確かにいて、私たちの罪のために死に、死を打ち破って生き返ったお方。

 

この方が今日も生きて、「平安があなた方にあるように」と言ってくださる。恐れなくて良いと。

だから私は生きていけます。もう一度頑張ろうと思えます。

 

 

もう一度コリント人への手紙の15章をお読みします。

私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

キリストは私たちにも現れ、いつも一緒にいて支えてくださいます。

 

イースターは、「今も生きている神 イエス・キリスト」を、改めて覚える時です。

みなさんもぜひこの方を信じて、いのちを与える神との、永遠に続く人生を始めてください。

心からお勧めしたいと思います。

コメントは受け付けていません。

サブコンテンツ

このページの先頭へ